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「日本外史・巻四」は、鎌倉幕府2代執権「北条義時」を中心に記しております。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は13人の家臣団に支えられていました。
頼朝の死後、鎌倉幕府内で内部抗争を繰り広げるが、最後に残ったのは北条義時。
鎌倉幕府の最高指導者である執権に北条義時を主に描いております。
NHK大河ドラマは、北条義時の波乱万丈の13人の家臣団を
「鎌倉殿の13人」のタイトルで鎌倉初期を描いたものです。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、現在NHKで放送中。
NHK大河ドラマのホームページ 「鎌倉殿の13人」をご覧ください。
隷書体による「日本外史」江馬細香・自筆
自筆下部に江馬細香の落款(印譜)「細香」と「湘夢」がある。2つとも細香の落款
自筆上部に緒方洪庵の所蔵を示す「適々齋」の落款(印譜)がある。
(自筆の凹凸はストロボの反射によるものです。)
「額縁入自筆原本」
上記額は、海外展示の際に用いられた額です。
「自筆原本」
原本下部の2つの印は、江馬細香の「細香・湘夢」の落款。上は、緒方洪庵の「滴々斎」の落款。
《江馬細香・自筆「日本外史」北条記》
原本の来歴及び国内所蔵数については下記に記載
「日本外史」は、「女文字」による精密な「隷書体」で記されております。隷書体の「日本外史」は日本国内では本自筆のみです。「日本外史」は、白河藩主・松平定信に献上され自筆の序文冒頭には、「上楽翁(松平定信)公書」、末尾には文政十年(1827)5月21日、序文の下に大垣藩医・江馬蘭斎の娘・細香の号である「湘夢」の押捺がある。自筆は「極細」の筆が用いられており、正確で精緻な筆の運びが「芸術的な領域に達している」としてアメリカでは高く評価されている。
海外展示に際し、断層写真により分析されております。原本を分析・解析するために海外の研究機関において「断層(MRI)写真」撮影等による新技術による分析・検査・証明が行われた後、一般の展示に付されたものです。
出品した自筆は、アメリカで撮影された下記「断層(MRI)写真」においてわかる通り、微細な曲線をも精緻に描いた極めて美しい芸術性の高い日本語の優れた文字としても高い評価を受けております。上から3番目の写真は、科学的で客観的な分析データを重視するアメリカの航空宇宙局(NASA)の技術による「断層(MRI)写真」です。「断層(MRI)写真」によって、古切の書の詳細を知ることができます。NASA(アメリカ航空宇宙局)の優れた技術である「断層(MRI)写真」撮影を通して、日本の優れた伝統技術をアメリカ国内において広く知らせているものです。
(Ⅰ)・出品した原本の「漢文」は次の通りです。
日本外史 卷之四 源氏後記 北條氏
外史氏曰。北條氏之事。吾不忍言之也。而諸敍其事。晦澁不鬯。亦有疑於文飾者。
獨源親房之論。頗可取信云。其論曰。源氏以武臣掌握天下。朝廷葢不能平。
況其後嗣。寡妻陪隸。繼當其家。欲乘此時而之以復舊權。似也。雖然。
王綱之衰久矣。賴朝奮一臂。以平其亂。雖朝廷未復其舊。而民庶息肩。
非有德政足以勝之。則安克之。縱使克之。民之不安。天豈・・・・《與之。》
漢文の文責・出品者
注記・漢字が難字(旧字)の場合、システムの関係でエラーとなり画像に反映されない場合があります。 その場合、空白となりますが落札の際に出力文を交付いたします。「原文の読み下し文」と「現代語訳解読文」は、漢文の文字(難字・旧字)を正確に反映しております。
(Ⅰ)・出品した原本(漢文)の「原文の読み下し文(解読文)」は次の通りです。
日本外史 巻之四 源氏後記 北条氏
外史氏曰く、北條 氏 の事、吾之を言うに忍びざるなり。
而して諸々其の事を叙するや、晦澁(かいじゅう) にして明らかならず。
亦文飾に疑わしき者有り。独り源(みなもと) 親房(ちかふさ) の論、
頗る信を取るべしと云う。其の論に曰く、「源氏、武臣を以て天下を掌握す
。 朝廷、蓋し平なる能はず。況んや其の後嗣、既に絶え、寡妻(かさい) ・
陪隷(ばいれい)、継ぎて其の家に当る。此の時に乗じて之を倒し以て
旧権を復せんと欲するは似たり。然りと雖も、王綱の衰うる久し。 頼朝(よりとも)、一臂(ぴ) を奮いて、以て其の乱を平ぐ。
朝廷未だ其の旧に復せずと雖も、而も民庶肩を息んず。
徳政の以て之に勝るに足る有るに非ずば、則ち安んぞ克く之を倒さん。
縦い克く之を倒すとも、民、安んぜずんば、天豈(あに)に・・・・《之に与せんや》
漢文の読み下し文の文責・出品者
(Ⅰ)・出品した原本(漢文)の「原文の現代語訳文」は次の通りです。
《「日本外史」北条氏冒頭の貴重な原文》
日本外史 巻之四 源氏後記 北条氏
外史氏は言った。北条氏の事跡は、彼等の所業が余りにもひどくて言うのも忍びない。
そして、諸々の北条氏の事跡を叙述した書物は、話の前後が混み入って不明瞭である。
その上、立派に飾り立てられた内容の疑わしいものも有る。
唯源親房の『神皇正統記』だけは最も信用出来る、と云われている。
そこにこう書かれている。
「源氏は、武臣の身分で天下を掌握した。朝廷は、恐らく内心は平穏では居られなかった筈だ。
況(ま)して、源氏の後嗣が既に滅んで途絶えたにも拘らず、
後妻政子と、朝廷から見ると家来の源氏の家来である又家来北条義時が、
その後を引き継いで源氏の代わりになっていた。
朝廷は、この時を見逃さず、北条氏をたおし、
昔のような政治権力を取り戻そうとしたのも道理ではある。
けれども、朝廷政治の大本が衰えて長い時間が経っていた。
頼朝は、一度肘を振って戦乱を平定した。
朝廷は、まだ昔のような政治権力を取り戻していなかったが、
それでも人民は肩を休めて安心して暮らしていた。
朝廷は、幕府に勝る十分な仁徳に基づいた善政を布かなければ、
如何してこれをよくたおすことが出来るのか。
もし仮にこれをたおしたとしても、徳政によって民を安堵させて
労(いたわ)るのでなければ、如何して天が・・・・・《朝廷に味方するのか。》
現代語訳の出典・「日本外史」
訳・頼惟勤・お茶の水女子大学名誉教授(1922~)
「自筆の断層(MRI)写真」
(断層画像MRI-4-1-A)
「細香・湘夢」の2つの印は、江馬細香の落款。
「序文の記載年号、落款、花押の資料」
写真右から隷書体の「曹全碑」写真。右から2番目は、序文末尾の拡大写真。日付左の印は、大垣藩医・江馬蘭斎の娘、江馬細香の号である「湘夢」の落款。右から3番目は、序文末尾に記された「文政十年(1827) 5月21日」の日付。その左が「湘夢」の落款。右から4番目が巻十六末尾下の「細香」の自筆署名と「湘夢」の落款。左端は、江馬細香・自筆の評価額・出典・「美術年鑑」古美術名家撰851頁(美術年鑑社・刊)
「額縁裏面ラベルと巻四冒頭の落款」
上の写真は額縁裏面のラベル
下の写真右端は巻四冒頭の部分
下の写真左のうち上段は緒方洪庵の号「適々齋」
下の写真左のうち下段は仙台藩の家紋竹に雀の落款
「江馬細香の肖像と自筆」
上の写真は、江馬細香の肖像。手前が細香、右上が紅蘭(原図は江馬家所蔵)
下の写真は、江馬細香の自筆の詩稿、三十九歳の時の漢文。校正個所は頼山陽
頼山陽「日本外史」江馬細香・自筆(直筆)を出品 商品説明 隷書体「日本外史」自筆には、「江馬細香」の落款である「湘夢」の押捺、江馬細香の草書体の花押、及び三巻の巻物の「日本外史」原本を収納していた「桐箱」の中の付箋には、「細香之書、文政十年(1827)三月二十七日、頼先生から譲受(ゆずりうく)」と記されている。この字を記したのは、仙台藩医・大槻磐渓である。磐渓の父・大槻玄沢(仙台藩医)は杉田玄白の筆頭弟子である。玄沢は、江馬細香の父・江馬蘭斎の上司であった。
「日本外史」は本来、二十二巻から構成される冊子本であるが、出品した自筆の体裁は、一巻から七巻までを長尺の一巻の「巻物」として、合計三巻の「巻物」となっている。そして、本来冒頭にあるはずの「序文」が末尾に表装されている。序文に記載されている日付は、文政十年(1827)五月二十一日である。このため、本自筆は松平定信へ献上する前の完成していない「書きかけ」途中の「日本外史」であることがわかる。
この自筆は、大垣藩の藩医・江馬蘭斎の娘で頼山陽の弟子・江馬細香の旧所蔵「日本外史」を頼山陽と親交があり、また尊敬をしていた仙台藩の大槻磐渓が譲り受けた「隷書体」の貴重な自筆です。(所蔵経緯の詳細は下記説明欄に記載)。出品して「日本外史」自筆は、隷書体による「日本外史」として初めてのものであり、貴重な隷書体の書として身近なものとして鑑賞することができます。
自筆 自筆切の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。上の「拡大断層(MRI)写真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「日本外史」の文字が記されております。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。落札後には、見やすいようにA4サイズの「光沢紙」に転写し交付いたします。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、隷書体による自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。
断層(MRI)写真 従来、日本の古美術の鑑定の際の分析・解析は、エックス線写真、赤外写真、顕微鏡が中心です。一方、アメリカやイギリスでは研究が進み和紙の組成状況を精確に分析・解析をするために断層(MRI)写真が利用されており、今回の出品に際し、「断層(MRI)写真」を資料として出しました。本物を見分けるための欧米の進んだ分析・解析技術を見ることができます。
寸法 「日本外史」原本の大きさ タテ24.7センチ ヨコ16.5センチ。額縁の大きさは、タテ40.0センチ ヨコ30.0センチ。額縁は新品です。
解読文 出品した書は、「漢文体」であるため解読のために「原文の読み下し文・現代語訳文」(解読文)を作成し、平易に解読し読むことができるようにしております。
稀少価値 所蔵経緯(来歴)
1・自筆には、「江馬細香」の落款である「湘夢」の押捺、及び三巻の巻物の「日本外史」原本を収納していた「桐箱」の中の付箋には、「細香之書、文政十年(1827)三月二十七日、頼先生から譲受」と記されている。この字を記したのは、仙台藩医・大槻磐渓である。磐渓の父・大槻玄沢は杉田玄白の筆頭弟子である江馬細香の父・江馬蘭斎の上司であった。
頼山陽(1780~1832)は、文化11年(1814)35歳のおり、京都の医者であった小石元瑞(1784~1849)の養女・梨影(りえ)を妻に迎えている。頼山陽は、小石元瑞の患者でもあった。小石元瑞は、仙台藩の侍医・大槻玄沢(1757~1829)に師事していた関係で、玄沢の次男・大槻磐渓(1801~1878)とも親しくしている。二人の交流は、頼山陽及び大槻磐渓両人の日記や著書に記されている。頼山陽の文政10年(1827)3月27日の日記(頼山陽46歳)には、「雨、大槻磐渓来訪」と記され、翌3月28日の日記には、頼山陽、大槻磐渓、小石元瑞ら18名で「夜桜」見物をしていることが記されている。
磐渓は、頼山陽と「夜桜見物」にでかけた時のことを次のようにその日記に記している。
「二十八日、新晴、二賴(山陽と杏坪)及び諸氏に陪して平野に遊ぶ。・・・晩桜乱発、落片雪の如く繽紛地に敷く。乃ち榻を花下に移し、張飲一場、頽然、皆酔ふ。日暮に及び、花下の茶肆、各々数十の毬燈を以て之を枝に掛く。遠近映発して煌々昼の如し。」 上記の通り、「桐箱」の中の付箋には、「細香之書、文政十年(1827)三月二十七日、頼先生から譲受」と記されていることから、頼山陽と会った日に「日本外史」自筆を受け取っていることがわかる。これは、大槻磐渓の個人的な依頼によるものではなく、仙台藩への献上品として前もって依頼し、この日に受け取っていることがわかる。金銭の授受は明記されていない。また、頼山陽が仙台藩への献上について記していないのは、前老中の松平定信への献上が約束されており、山陽の自筆文を松平定信の前に仙台藩に献上することに遠慮があったものと推定されている。
大槻磐渓は、持ち帰った「日本外史」を藩に献上する前に隷書体「日本外史」を元に格調高い文体で「日本外史」を写している。磐渓は、「日本外史」を手書きによって書き写したのは、尊敬する頼山陽の業績を自らの手で確認したいとの思惑があったのではないかと考えられる。
2・「緒方洪庵の旧所蔵」
自筆の一部には緒方洪庵の所蔵を示す「適々齋」の落款(印譜)がある。一部の自筆が緒方洪庵の手許に渡っていることがわかる。緒方洪庵は、大槻玄沢の弟子であることは広く知られている。緒方洪庵自身も一部を所蔵し、大切に読みこなしていたことをうかがい知ることができる。緒方洪庵は、大阪大学の前身・適塾を創設。洪庵は文化7年(1810)7月14日生~文久3年(1863)6月10日没。
「日本外史」の外国語訳版では、 「NIKHON GAISI」V.M.Mendrin,1915,Vradivostok. があります。外国での展示に際し、上記「NIKHON GAISI」の表記ではなく、日本の国外における表記に準じ、「NIHON GAISHI」と表記。アーネスト・サトウは、明治5、6年頃「The Japan Mail」に「日本外史」の英訳を載せている。そのノートは、ケンブリッジ大学アストン文庫に残っている。
出品した「日本外史」の書は、小さな断片です。このような断片を「古切」という。 頼山陽の自筆原本の多くは、頼家のある広島市が昭和20年の原爆投下によってその大半が焼失したため、爾来、出品者宅においても厳重に保管されていた。「日本外史」は、元来、大槻磐渓の書として冊子や巻子(かんす)で伝えられたものが、鑑賞用として「茶人」の好みにより「掛軸」、或いは屏風に仕立てられ茶道具として用いられた。なお、自筆を断片化することを「古切」という。
国内における所蔵先等
出品作品と同じ「日本外史」の写本は、国立国会図書館(村瀬秋水・写)、東京大学、京都大学、大阪府(1冊のみ)など8箇所に現存。「国書総目録」第6巻379頁(岩波書店・刊)出品作品は、所蔵経緯、来歴が明確であるため極めて希少価値が高い。ただし、いずれも「真書体」「楷書体」で、「隷書体」の「日本外史」自筆は、本出品の自筆は日本国内でただ1部現存するのみ。
江馬細香の自筆について 1・筆跡の分析と筆者の特定について
自筆は昭和39年以来アメリカの大学で分析され以後アメリカ国内で展示が継続されていた。一部が日本に戻り後の大半はまだアメリカで展示されております。自筆には、「江馬細香」の落款である「湘夢」の押捺、自筆署名の花押、及び三巻の巻物の「日本外史」原本を収納していた「桐箱」の中の付箋には、「細香之書、文政十年(1827)三月二十七日、頼先生から譲受」と記されている。この字を記したのは、仙台藩医・大槻磐渓である。磐渓の父・大槻玄沢は杉田玄白の筆頭弟子である江馬細香の父・江馬蘭斎の上司であった。
蘭斎は、江戸での学業を途中で打切り大垣藩の藩医となる。大垣藩で蘭医として名声の上がっている江馬蘭斎の許を頼山陽が訪れ蘭斎の娘・江馬細香に求婚するが父・蘭斎が断る。若い頼山陽の貧しさを父・蘭斎が嫌ったことが原因である。しかし、細香は頭脳明晰で漢文や詩文をこよなく愛し、その後頼山陽に弟子入りしている。
頼山陽は、早い時期から「日本外史」を書き始め、文化2年(1805)年3月20日の「大槻子縄(仙台藩学頭)に与ふる書」の中で「日本外史」を起草していることを示している。「日本外史」は「文政十年(1827)五月二十一日付」で白河藩主・松平定信に献上したものだが、献上以前に並行して仙台藩からも求められ頼山陽が弟子の江馬細香に写させていたと推定されている。
白河藩主・松平定信の献上の二ケ月前に大槻磐渓に渡されたのは、大槻磐渓の父・玄沢が病床にあったことが関係しているという説、及び白河藩より仙台藩の方が大藩であったことと、頼山陽が仙台藩から援助を受けていたことも関係しているとの説もある。また、大槻磐渓は、文政十年(1827)より以前に序文のない下書の「日本外史」を入手し「楷書体」による写しを進め、後年、前記の通り、磐渓の父の弟子である緒方洪庵に渡っていることがわかっている。
2・「江馬細香の自筆とアメリカの基準について」
①・自筆は「女文字」であり、同時に上記、細香自筆の草書体の花押、落款、及び来歴から日本国内的では「江馬細香・自筆」とされていた。しかし、アメリカでの展示に際しては、科学的な筆跡全体の照合が条件として追加される。日本的な鑑定人による視覚による主観的な分析ではなく、科学的な解析手法である「ドーバート基準」による筆跡の分析、すなわち、江馬細香の「隷書体」自筆との照合であるが、細香は「湘夢遺稿」など多くの自筆文を残しているがいずれも「行書体」「草書体」で「隷書体」の自筆文は現存していない。 このため、細香の他の隷書体の文字との照合ができないため、海外展示に際し、「江馬細香・旧所蔵」とし、「Ema Saikou・Autograph(江馬細香・自筆)」とはしていなかった。(2015年1月迄)
その後のコンピュータ分析の精度向上の結果、江馬細香の「草書体」の文字と「隷書体」の文字情報を高速度で分析した結果、自筆は「江馬細香・自筆」であると解析された(分析法は下記②の欄)。この結果、「江馬細香・自筆」と説明欄に追記した。
②・自筆の筆者の識別方法について
国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の 一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。
③・筆跡について
欧米では、筆跡の細部を検証するには人間の目ではなく、指紋の照合と同様アメリカではコンピューターが利用されております。資料として断層画像写真を出品欄に掲示しております。落札後の額縁裏面には説明文として、 「Nihon Gaishi・1827 Ema Saikou・Autograph」 との表記されております。
上記英文の日本語訳は、「日本外史・1827 江馬細香・自筆」
出品に際しては、アメリカの基準に準拠し説明欄に記載している。
13代将軍徳川家定の正室・篤姫と「日本外史」の関係 「日本外史」は第13代将軍徳川家定の正室の決定に大きな影響を与えたことが知られている。13代将軍家定の正室候補にあげられていた薩摩藩主・島津斉彬の娘・篤姫は老中たちの強い反対に遭遇していた。
徳川将軍家の正室は京都の公卿筋から選ぶべきだとの意見があり、その反対論を一蹴したのが「日本外史」であった。安政元年の春、薩摩藩江戸屋敷に水戸斉昭、山内豊信、伊達宗盛、松平春嶽などの幕府老中たちが薩摩藩主・島津斉彬を囲み「花見の宴」を開いていた。宴の目的は島津斉彬の娘・篤姫が将軍の正室にふさわしいかどうかを老中たちが見定めるためである。老中たちへの挨拶に訪れた篤姫に対し、水戸斉昭が篤姫の愛読書「日本外史」について質問する。篤姫は正確に受け答えをし、老中たちは篤姫のその読書量と理解の明晰さに感動したという。老中諸侯の反対論が一蹴されたことはいうまでもない。「日本外史」をきっかけにその場にいた老中たち全員が正室入輿の推進者となったと言われている。
水戸斉昭や伊達宗盛はこの時の様子を日記に記し、また篤姫の正室入りに最も強く反対していた福井藩主・松平春嶽は「斉彬公行状記」の中でこの時の篤姫の様子を「聡明にして温和、人との応接も機智に富み、学問(日本外史)深し。かくなる姫を御台所(正室)に迎えるは徳川家にとっても幸福というべきなり」と記している。その後、日本国内で「日本外史」を理解する篤学の女性として「東の篤姫、西の細香」とまで言われた。後年、江馬細香の漢詩が掛軸となり茶の道具として用いられるようになるのは、こうした歴史的背景がある。
HP 隷書体「日本外史」江馬細香・自筆の書を出品いたしました。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。
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